平戸焼について | 中里茂右ヱ門窯
平戸焼の歴史について、まとめてみました。
今村家文書では、三之丞(さんのじょう)を初代とし、三之丞を「コモカイ(韓国慶尚南道の熊川)人焼物師の倅」とし、三川内山棟梁の初代としている。
元和・寛永の頃有田に近い木原や三川内山では、高麗媼(こうらいうば)などの陶工集団が、すぐれた陶器を焼くようになっていた。元和2年(1616)、有田では李参平(りさんぺい)らによって泉山に白磁の原料となる磁石が発見され、天狗谷で磁器窯が開かれた。三之丞らも、美しい白地に染付の磁器を作り出そうと努力した。
三之丞らは寛永10年(1633)、針尾島の三ツ岳に白磁鉱を発見したが、思うような焼物は生まれなかった。三之丞は肥前の皿山に、修業の旅に出ること20年に及んだと記録されている。
その頃、白磁や青磁の焼物師として有名だった高原五郎七が、有田の南川原に招かれている。三之丞は宇田権兵衛と共に弟子になった。権兵衛の弟子に柿右エ門がいた。三之丞がもっとも習得したかったのは白磁に呉須で描かれる染付の製法だったが、特に釉薬の調合法は秘して教えられなかった。三之丞は妻を女工として五郎七の下で働かせ、やがてその秘法をさぐり出した。三之丞はひそかに波佐見の三ツ股(みつのまた)にのがれ、そこで窯を開いた。
やがて三之丞は藩主の命令で帰国し、三川内に平戸藩御用窯を築くことになった。椎の峯(しいのみね)で知り合った陶工らにも参加を求め、平戸藩御用窯の体制を作り上げ、自らは皿山棟梁(さらやまとうりょう)となった。慶安3年(1650)には中野窯の陶工達も三川内に移動させた記録がある。寛文8年(1668)、藩は三川内に四反歩の地を選び、新たに細工所、代官所、番宅をおいて、御用窯を充実させた。
三川内焼を平戸藩御用窯として大成させたのは、今村三之丞の倅、弥次兵衛正名であった。弥次兵衛は天草石と三ツ岳の陶石を調合し、純白の白磁を完成した。そして青藍染付(そめつけ)、盛上細工物、彫刻物、ひねり物等、すぐれた作品を生みだし、後に藩主から如猿(じょえん)の号を賜った。
平戸藩御用絵師の絵手本をもとに絵付けし、藩から扶持米(ふちまい)をもらい、陶業に専念できる御細工所の陶工達によって、朝廷や幕府への献上品や藩御用品が焼かれた。
三川内焼を代表する唐子焼は、唐風の服装の子どもが松の下で牡丹(ぼたん)にとぶ蝶とたわむれている模様で、七人の唐子は朝廷や幕府への献上(けんじょう)焼、五人唐子は藩用、三人唐子は一般用と云われていた。
寛政8年(1796)、天草上田家の記録によると、当時の三川内皿山は二登りの「のぼり窯」があり、合計して45部屋の焼成室があり、300人程の人々が働いていた。またここは平戸藩御用窯で、御細工所の焼成師は扶持米をもらい、帯刀を許された武士の身分の人が多くいるとも述べている。
この御用窯の技術は秘密で、一子相伝(いっしそうでん)とされ、長男だけに受け継がせる厳重なものだった。しかし19世紀になると、すぐれた技術を継承させるため、長男だけでなく、次・三男にも教えるための新窯が築かれている。
天保期に入ると、幕府への手伝普請の負担や大飢饉(ききん)により藩財政が悪化した。
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